ハイスぺ港区サラリーマン 健二(27歳)

一流企業に勤め、高い年収を稼ぎ出し、若くして港区に住む独身男性を女性たちは「ハイスぺ港区男子」と呼ぶ。

外資系証券会社に勤める健二(仮名・27歳)もその一人だ。

港区に住んでもう5年経つというが、彼からは港区男子特有の世間擦れした印象は一切ない。
少し寡黙そうで時折見せる傷つきやすそうで悲しそうな表情は青年のようでもある。

ただ、その母性をくすぐるような独特な雰囲気は天性のもので、実際に喋りだしてみると外資系一流企業で鍛えられてきたものだと気付かされる、頭の回転の速さとテンポの良い口調が印象的だ。

そんな彼は女性に困ったことなんて無いだろうと思ってしまうが、健二にはかつてある一人の女性との間に小さなトラウマがあった。

その出来事とは一体なんだったのだろう。

■5年前

それは、健二が今の会社に就職する半月前。
内定式で懇意にしてくれた会社の先輩のすすめで、学生の頃から住んでいた中目黒から今の港区に引っ越そうと考えていた。

中目黒には大学2年の頃から住んでいて、アルバイトも近所の小さなバーでバーテンダーをやっていた。そこは健二にとって思い入れのあるバイト先で、もともとその店には客として大学二年の頃から通い始めたのだったが、マスターの人柄とお店の雰囲気に惹かれて客から接客側にまわった。

その店で健二はとてもかわいがられ、就職が決まった報告をした時には店のマスターが店を貸し切り祝賀会まで開いてくれたのだった。
そしてこの春就職するにあたり、住み慣れた中目黒を離れる報告をしたところ、お店の常連客も集まり壮行会を開いてくれた。

その時、常連客の女性が連れてきていた友人の一人に葵(25歳)がいたのだった。
葵は都内のコンサルタント会社に勤めているOLだった。
第一印象は整った顔のせいか少し近寄りがたいクールなイメージだったが、常連客とマスターとの会話の中で起こる笑いの中で、彼女の笑い声だけなんだか耳心地が良く、とても楽しそうにそして朗らかに笑う女性なんだなぁというのが健二の印象だった。

「健二君は今年の春から社会人なんだ。聞いたら外資の有名企業というじゃないか。華やかな人付き合いと仕事の忙しさできっと僕らおじさんの事なんてすぐ忘れちゃうね。こうやって中目黒で遊んでくれた事、俺は忘れないから!」

と急に常連客の一人のエイジさん(47歳)が大きな声で健二に絡みだした。

「やめて下さいよ。忘れるわけないじゃないですか。人見知りでろくに初対面の人とは話せなかった僕がここまで成長することが出来たのは皆さんのおかげだと思ってるんですから。」と健二が言うと、

「確かに健二君、お店で働きだした時はまったくお客さんとも話さず、早口でお酒の説明したと思ったらすぐカウンターの奥に引っ込んじゃってたもんなぁ。エイジさんにやけに声が小さい新人君だなぁとかからかわれていたっけ。」とマスターが昔を懐かしむように眼を細めながら笑った。
「健二君かわいいなぁ~。」とマスターや常連客からからかわれる中、咄嗟に昔からのくせで襟足をさすりながら少し赤面してしまった健二だが、ふと葵が気になって視線をやると、少し控えめに何かいじらしいものを見るような表情で健二に向かって「ふふふ」と笑って見せた。

そして祝賀会もお開きになる頃合いにマスターがこんな事を言ってきた。

「健二君、今日はなんだかやけに昔に戻っちゃったみたいにシャイだったじゃないか。何か気になる人でもいたのかい?」と。

こういう時のマスターの勘はするどい。

健二は少し困惑したが、正直に言った。

「葵さんがすごく楽しそうに笑ってくれるのが何だか、その、すごく嬉しいというか、気になっちゃって。もう少し話してみたいなぁと思って・・・」と。

するとマスターが「葵ちゃんも健二君のこと気に入ってるんじゃないかな。これは長年こういう仕事をしている僕の接客経験の勘だけどね。」とにやっと付け加えた。

そんな中、「じゃあ私たちも、もう帰ろうか。」と葵を連れてきた常連客の佳代さんが葵に声をかけた。

するとマスターが「ちょっと待ってくれるかい?今日は長年当店ご愛好感謝のしるしにお土産があるから、佳代さんちょっとカウンターの方に来てくれる?」と引き留めた。そしておもむろに健二を見て合図をしてきた。

すると葵は「じゃあ私は酔いさましにでも夜風に当たって外で待ってます。」と言い、先に店を出てしまった。

急いで後を追って外に出た健二は「今日は楽しんで頂けましたか?」と葵に声をかけた。

すると葵が少し驚いたように振り返り、「あ・・。もちろん!」と返してくれた。

まだ春というには冷たい夜風の中、二人の会話はやけに初々しかった。

そんな事がきっかけでその後、葵と健二は二人きりで食事に行くことになった。

お店は葵の職場に近い日本橋のフレンチ。

健二も社会人になり、職場から待ち合わせ場所には直行したのだったが、退社間際まで長引いたミーティングのせいでギリギリの到着になってしまった。

先に到着して店内に通されていた葵は相変わらず朗らかに笑いながら、手を振って「こっちこっち」とジェスチャーしながら待っていてくれた。

健二が近づいていくと、葵が自分のみぞおち辺りを指さしてクスクス笑い出した。

「え?え?」何がなんだか解せない健二はふと自分の胸を見ると会社のICカードをぶら下げたままだった。

あれほど初デートに気合を入れてきたつもりだったのに、まさかの失態に初対面の時同様、またもや赤面してしまう健二だった。

「お仕事、忙しいみたいね。社会人生活はどう?慣れてきた?」と笑いながら葵が言った。

「今日はちょっと退社時間ぎりぎりまで打ち合わせが長引いちゃって。目的の電車に飛び乗って安心したせいか社員証をかけたままだった事に気が付きませんでした。」と襟足の髪の毛をなでながら健二は言った。

出される食事はどれもおいしく、徐々に葵との会話も打ち解け、お互いの幼少期の話までしてあっという間に時間が過ぎた。

お会計の時、健二が支払おうと財布を出すと葵が「ここは私が払うからいいよ。」とほほ笑んだ。
そうはいかないと伝票を葵の手から奪い返そうとすると、
「ごめんなさい、今日私カードしか持ってないの。だから一括で私に払わせて」と。

そして葵が財布から出したカードは「ANA VISAワイドゴールドカード」だった。
金色に輝くそのカードは社会人になって間もない健二にも分かるゴールドカードという、眩しいステータスだった。

ゴールドカードは会社の先輩がご飯に連れていってくれた時、会計の時に何度も見たことがある。しかし正直カード決済の利便性もそこまで感じておらず、ましてやゴールドカードは社会人になりたての自分にはまだ早いと思いゴールドカードを作ろうと思った事はなかった。

その日は言い出したら一向に引かない葵に根負けし、葵がカードで支払いを済ませた。

あんなにデートに気合を入れていた健二だったが、なんだか情けないような泣きたいような気持になり、帰りは気を使って色々話しかけてくれる葵との会話をあまり覚えていない。

情けないけれど、こんな小さな事でプライドがくじけ、自分なんて葵とは不釣り合いな男な気がして卑屈になってしまった。

そんな事もあり、その後何度か葵が食事に誘ってくれたが、社会人としても一人前の男としても未熟な失態をまた晒してしまうのではないかと気が引け、誘いに乗れなかった。

その代わり健二は早く一人前になりたくて仕事に没頭した。

入社して5年。今や健二は同期の中でも異例の出世スピードで若きマネージャーだ。

後輩やチームの新人を食事に連れて行ったりクライアントとの会食も多く、外食する機会は新人の頃とは比較にならない。

ある晩、チームの新人数名を連れて恵比寿の焼き肉屋に行った。

新人の一人が「今日は健二さんにご飯に誘ってもらえてすごく嬉しいです。なんか自分、早く一人前になりたくて仕事に打ち込んでるのに空回ってばっかりで。結果が早くほしいというか。」と悩みを打ち明けだした。

健二は「俺も入社して半年、一年くらい悶々とした時期もあったよ。でも、悩む時間があったらやっぱり仕事して経験積むしかないんだよね。とりあえず今日は一杯食べて英気を養えよ。好きなもの注文していいよ。」

「ありがとうございます!!」

後輩に羨望や憧れのまなざしで見られるのは健二の性分に合わず、どことなく居心地が悪い。

食事が済み、すっと席を立ち店員を呼び止めた健二が財布から出した一枚のカードは漆黒に輝く「三井住友VISAプラチナカード」だった。

5年前、葵との格差に悩み、社会人として早く一人前になりたいと焦燥感にかられていた健二はもういない。

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